月の砂漠をホーリーボルト

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「笑う権利」と「作家を自称するバカ」
JUGEMテーマ:日記・一般


 エレ片を誉める。

 わしがお笑い方面の情報の収集に消極的なせいもあるだろうが、エレ片はその実力や面白さのわりに、あまりに誉められていないと感じる。誉められなさすぎ。

 エレ片はもっと誉められなければならない。誉めねばならない。

 だからわしが誉めようと思う。


 ここで、本題に入るまえに長めの前振りをしたい。笑う権利について、だ。

時間帯 Mon. Tue. Wed. Thu.
深夜0:00〜1:00

JUNK ZERO
バナナマン おぎやはぎ エレ片 ケンドーコバヤシ
深夜1:00〜3:00

JUNK
伊集院光 爆笑問題 雨上がり決死隊 アンタッチャブル







 上の表はTBSラジオの月〜木曜、深夜0〜3時に放送されている8番組のタイムテーブルだ。それぞれの番組が別個にPodcastを配信している。

 わしは聴けるときには本放送も聴くが、基本的にはPodcastで放送を楽しませてもらっている。番組によって、Podcastが本放送の一部を切り出したものもあれば、Podcast版として専用に別録りされているものもある。どうもパーソナリティーのギャラが高いほど切り出し版が多い傾向がありそうだが、それは問題ではない。わしが問題と感じているのは、パーソナリティーのトークに混ざっていやでも耳に入ってくる構成作家やディレクターの笑い声である。

 構成作家がパーソナリティーのキャッチャー役として番組に登場し、笑いどころで大げさに笑ってみせることで面白さのポイントを強調し、同時にパーソナリティーをノセる手法の嚆矢をたどれば『ビートたけしのオールナイトニッポン』における高田文夫に行きあたる。

 当時のたけしにとって漫才の相方・きよしは物足りないキャッチャーであっただろう。きよしと比べてはるかに感度の良い高田文夫は番組に欠かせない存在だった。高田文夫は幇間のように笑い転げつつコントロールの良い合いの手を入れることでたけしをノせ、同時にリスナーを自然に教育・誘導していった。受け芸と呼べるレベルだ。


 それから30年近くが経った現在、ほとんどの深夜放送番組の録音ブースには「そこにいて当然」といった風情で構成作家が同席して、だらしなく笑い声を垂れ流している。

「いぎたない」とは本来は睡眠の様子をくさすときに使う言葉だが、現在の放送作家が垂れ流す笑い声が耳に入ってくるたびに「いぎたない笑い声」というフレーズが浮かんでしまう。彼らの笑い声は、例外なくだらしない。個人差はあるものの、「笑う」ことを強調しようとするためか、ほとんどの構成作家の笑い声はヒステリックで、神経を逆撫でする。


 そして、これがいちばんの問題だと思うのだが、彼らの笑い声には機能・効能が伴っていないのである。唯一、パーソナリティーを安心させる効果だけはありそうだが、それはスタジオ内での甘えた共犯関係を作っているに過ぎない。

 テレビのバラエティー番組でもスタッフの笑い声が強調されることがあるが、テレビとラジオとでは話がまったくちがう。テレビであれば、笑い声の主のカメラマンなりADなりを一瞬抜くことで、視聴者に「あいつが笑ってるのか」という安心感を与えることができる。

 しかし音だけしか情報源がないラジオでは、それが誰かもわからない、自己紹介すらしない「第三者」のいぎたない笑い声を耳に流し込まれるたびにリスナーは不快となり、ストレスを溜めることになる。


 リスナーのなかでも構成作家を目指しているような人であれば、「いつかは自分もあの笑い声の主になりたい」と感じこそすれ、不快感はないのかもしれない。しかしそれはリスナーのごく一部であり、高田文夫の芸の本質的な機能・効果を理解できずに上っ面だけをコピーした成れの果てが現在の構成作家だと考えれば、良い影響などどこにもないことが理解できる。

 よかれと思って笑い転げている構成作家は救いようがないが、不思議なのはパーソナリティーがそれを許してしまっている点だ。とくに爆笑問題の太田光のような「常識や風習を疑って自分のフィルターを通して考え直す」ことをスタンスとしている切れ者が構成作家の笑い声を許容してしまっている現状は、わしにとっては不可解である。


 そもそも、声を出して笑うという行為は、排泄以外の何物でもない。

 本来、排泄はごく個人的な行動であり、人前では慎むべき行為だ。だから、人前で笑うときにはそれなりのマナーが必要となるとわしは考える。わしは落語が好きでよく寄席に出かける。そして、面白ければ声を出して笑う。その笑い声の半分は演者に向けた「受け取りました」の合図でありエールであり、残りの半分が排泄物としての笑い声だ。

 しかし、常軌を逸した大声で笑ったり、奇異な笑い声を発することは、場の雰囲気や他の観客の「聴く権利」を阻害する行為だとも考えている。自分の笑い声=排泄物が常識の範囲内に収まるかどうかは判断しにくいので、一度ボイスレコーダーを客席に持ち込んで録音し、自分の笑い声は許容範囲内なのかどうかを確認したことがある。

 本人は番組を盛り上げるためと信じているのかもしれないが、リスナーにとっては「それが誰かもわからない人の排泄行為の様子を耳に押し込まれている」だけであることを知ってほしい。



 ついでに、放送業界ではごく一般的な用語として流通している「作家」という言葉にも触れておく。

 作家とはもちろん構成作家・放送作家の略称だ。これを業界用語と意識して使っているぶんには、わしに文句を言う筋合いも権利もない。しかし、業界用語をリスナーに対して押しつけるのはいかがなものか。


 おぎやはぎの番組だったと思うが、構成作家がなにかの告知をするために珍しく自己紹介してから話し始めたことがあった。そのときに「作家の△△です」と言ったのを聴いたときには、救いようのないバカだと思った。自分で自分のことを「作家」と言う奴がいようとは。たとえ小説家であろうと、声に出して作家を自称すれば、それは単なる恥知らずである。おぎやはぎの武器が「ゆるさ」だとしても、構成作家までがそこにのっかってゆるくなってどうする。言葉を商売道具とする者にとって、この無神経ぶりは致命的だとわしは思う。


 長めの前振りも、そろそろ終わる。

 ジャンクゼロ、ジャンクの8番組中、構成作家の笑い声がほとんど入らない唯一の番組が『エレ片のコント太郎』である。これには、エレ片が3人組のユニットなのでそれ以上の笑い役は不要だから、という理由があるかもしれない。でも、それだけではないはずだ。

 わしがこう考える根拠はPodcastの第1回(2006年4月7日)配信分にある。この回に『笑う放送作家』と題されたコントが収録されているのだ。笑いの沸点が低く、やたらとバカ笑いをする「作家」(片桐仁)と、それに腹を立てるDJ(やついいちろう)のスケッチだ。これは番組のスタートにあたってのエレ片の「宣言」であると、わしは受け取っている。
| 日記 | 13:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
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